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Dirty Mercy ずるい憐れみ

Do you know what the world’s most recorded song of all time is?
世界で最も録音、発売された曲はなんだかわかりますか?
Yesterday (the Beatles) – recorded 4000 times.
ビートルズのイエスタデーです。4000回録音、制作されました。
I find it interesting that Yesterday is the world’s most recorded song of all time with 4000 recordings when Amazing Grace has been recorded 7000 times!
このことはちょっと興味深いなと思いました。なぜなら、ビートルズのイエスタデーは4000回録音制作されましたが、アメイジンググレースは7000回録音制作されています。

That makes Amazing Grace almost twice as popular as the most popular song for recording.
アメイジンググレースは世界的に有名な曲に比べて2倍近くも人気のある曲だということを示しています。
Amazing Grace has an amazing history and an amazingly diverse appeal.
アメイジンググレースという曲は文字通りアメイジングな記録と驚異的に多様な魅力を持っているのです。

Did you know that apart from being played in churches and schools and at funerals and sporting events, it was played at the Woodstock music festival in 1969?
実はこの曲は教会や学校、お葬式や、運動会などで流されるだけでなく、1969年にはウッドストックという世界的な音楽の祭典でも流されました。

Everybody loves Amazing Grace because everybody loves amazing grace!
みんな「アメイジング・グレイス(驚くばかりの)」という賛美歌が好きです。なぜならみんな驚くばかりの恵みが好きだからです。

Philip Yancey, one of the World’s most popular Christian writers, has written three books on grace
フィリップヤンシー、彼は世界的に有名なクリスチャンの作家ですが、恵みについて三冊の本を書いています。

What’s So Amazing About Grace?
Vanishing Grace
Grace Notes

(I recommend them. They are excellent.)おすすめしますので、ぜひ、これらの本を読んで見てください。

So, we love grace. Grace is good. そうです、私たちは恵みを愛します。恵みは素晴らしいものです。

But have you ever wondered we love grace so much?
でも、実際に私たちがどれほど恵みを愛していることを考えたことはありますか?

The whole world loves grace and Christians love grace for the same reason:
この世界中のみんなも恵みを愛しています。クリスチャンが恵みを愛するのと同様に。
we get something for nothing.
恵みとは、何もしていないのに得られるのです。

It’s a great deal!
なんという素晴らしいとりきめでしょうか!

Grace is often (and rightly) defined as “unwarranted favour”.
恵みはよく“受けるに値しない好意”と言われます。(そのとおりです)

When we receive grace from God we receive something wonderful that we don’t deserve. It‘s like Christmas!
わたしたちが恵みをいただく時は通常、私たちに値しないようなものをいただけます。それはまるで、クリスマスの時のようです。
We receive blessing that we have not earned and that we have no right to receive.
私たちは受け取るような権利もなければ、努力もしていないのに、恵みをえることができるのです。
So grace is all good.
恵みは良いことばかりです。

But I have one concern about grace and it’s this:
でも、ひとつだけ恵みにたいして気になることがあります。それはこういうことです。
both within the church and without, grace is too often seen as a licence to sin.
教会の内、外に限らず、恵みは罪を犯す許可を与えているように見られがちだということです。

Got a sin habit? Don’t worry about it. You’re covered by grace.
ついつい罪をおかしてしまう。でも、大丈夫、恵みをいただけるから。
Want to follow your own desires and paths for a while? Grace has you covered. You can come back later.
長い間、自分の欲望のことばかり考えて我が道を突き進んでしまった。でも、恵みがあなたを助けてくれるから、あとで、ちゃんと軌道修正できますよ。
Want to be Lord of your own life for a while? It’s okay. God understands. You’ve covered by grace.
長い間、自分だけを信じて自分だけの人生を歩んできました。でも、大丈夫。恵みがあなたにありますから。
I hope you can see that there’s something wrong with this.
以上、私が言ったことについて、あなた方が違和感を持ってくださることをいのっています。

In fact, Jesus directly addresses those who say this very thing: I will follow you but first let me finish my work, my course, a relationship etc
実際は、「主よ、あなたに従います。しかしまず家にいとまごいに行かせてください。」や、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください。」などと言う人々に対して、イエス様は次のように言っています。
Jesus declares such people to be “unfit for service in the Kingdom of God”.
ルカによる福音書9章62節から「神の国にふさわしくないものである」と、このように言っています。(Luke 9:62)

I believe it’s this very heart which Jesus warns and says,
イエスがこのようなこと言ったり、忠告したりするのはまさにこのような人々に対してです。 ‘I never knew you. Away from me, you evildoers!’ Matthew 7:23
マタイによる福音書7:23では、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』とも、言いました。

Part of this problem with grace is that we have forgotten about mercy.
この恵みの問題には私たちが憐れみを忘れてしまっていることにあります。

Mercy and grace are closely related and are often mentioned together in the Bible.
憐れみと恵みとはとても関係が深く、聖書でもよく一緒に伝えられることが多いのです。
But unlike grace, mercy is no longer a very popular word or concept.
でも、憐れみは、恵みとは違っていて、もはや人気がある言葉や概念ではありません。
Ever heard a song called ‘Amazing Mercy’?
みなさん、今までに「アメイジングマーシー/驚くばかりの憐れみ」なんていう曲を聞いたことがありますか?
Why hasn’t Philip Yancey written any books on mercy? Why three on grace but none on mercy?
フィリップヤンシーはどうして憐れみについての本を書かなかったのでしょうか?彼は三冊も恵みについて書いているのに憐れみについては一冊も書いていないのはどうしてでしょうか?
I’m not implying anything negative toward Philip Yancey but I’m betting no book on the topic of mercy would not sell as well as those on grace.
わたしは、別にフィリップヤンシーついて反発している訳でもないのですが、おそらく、恵みに比べると、憐れみについて書かれた本は売れないのでしょう。
Why not? Why don’t we love mercy as much as we love grace?
なぜでしょう?なぜわたしたちは憐れみを恵みほどは愛せないのでしょうか?

Because they [mercy and grace] are not the same thing and unlike grace, mercy costs something.
なぜなら、憐れみと恵みは同じではなく、恵みとは違って、憐れみは無償ではありません。

Mercy is often (and rightly) defined as ‘deliverance from judgement’.
憐れみはよく‘裁きからの解放’と言われます。(そのとおりです)

So whereas grace is all about blessing and favour that we don’t deserve, mercy is all about deliverance from a judgement that we do deserve.
まさに、恵みは全てが、私たちが値するはずもない祝福や福音についてですが、憐れみは私たちが当然受けなければならない裁きからの解放でしかないのです。
And we don’t like the idea of being judged.
そして、私たちは裁かれるという考えは好きではありません。
We certainly don’t like the idea of being punished.
罰せられるなんていう考えはもってのほかです。
Judgement and punishment just don’t fit well with our new world order where tolerance is the highest virtue and sin as a concept no longer exists.
裁きや、処罰なんていうものは、忍耐が美徳とされ罪はもはや存在しない私たちの新しい世界にはあてはまりません。
So even if not spoken, mercy is seen as something no longer necessary and even a bit dirty.
だから、話題になることがなくなったとしても、憐れみはもう必要ではないし、すこしずるいイメージです。
But we ignore mercy at our peril.
しかし、わたしたちは憐れみを、私たちの危険と引き換えにして無視しているのです。

Grace is a reason for loving God.
恵みが’あるから神を愛するのです。
Mercy is a reason for fearing God.
憐れみがあるから神を畏(おそ)れるのです。

In much the same way, we like to talk about loving God but we don’t like to talk about fearing God.
これらと同様に、私たちは愛なる神のことを話すのは好きですが、畏れるべき神のことを話すのは好みません。
But God is very big on both.
でも、神はこの両方、愛と畏れの神なのです。

For it is by grace you have been saved, through faith—and this is not from yourselves, it is the gift of God— not by works, so that no one can boast. Ephesians 2:8,9
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
エフィソの信徒への手紙2:8,9

Have mercy on me, O God, according to your unfailing love; according to your great compassion blot out my transgressions. Psalm 51:1
神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。詩篇51:1

At one time we too were foolish, disobedient, deceived and enslaved by all kinds of passions and pleasures. We lived in malice and envy, being hated and hating one another. But when the kindness and love of God our Savior appeared, he saved us, not because of righteous things we had done, but because of his mercy. He saved us through the washing of rebirth and renewal by the Holy Spirit, whom he poured out on us generously through Jesus Christ our Savior, so that, having been justified by his grace, we might become heirs having the hope of eternal life. Titus 3:3-7
わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。 ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、 わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。 この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。 これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。 テトスへの手紙3:3-7

One of the primary reasons I see Christians fall is because they profess a love of God but they no longer fear him.
愛である神に啓蒙しすぎて神を畏れることを忘れてしまうというのが、クリスチャンがつまずいてしまう、ひとつの基本的な理由です。
Jimmy Baker the disgraced evangelist said this very thing in explaining his downfall.
ジミーベイカー、不真面目な伝道師はこのように言いました。それがまさに転落の原因だと。
In the same way, I worry about Christians who live happily under the grace of God but no longer see the need for His mercy.
このように、私は、クリスチャン達が神の恵みばかりを追い求め、もはや神の畏れをみることをしなくなってしまうことを心配します。
This has repercussions that are wider than our own behaviours.
このことは、私たちの行動にも大きく影響しています。
When we share the gospel, is the good news all about the grace of God and the blessings that are ours, or is it also about the mercy of God and the deliverance that is ours from the judgement that we deserve.
わたしたちが福音を述べるとき、神の恵みが全てで、神の祝福は全て私たちのものだという風に伝えます。また、神の憐れみは私たちが裁きに値するその代償だというふうにも伝えます。

Let’s look at the woman caught in adultery.
つぎに、姦淫の罪をおかしてしまったある女性についてみていきましょう。
The teachers of the law and the Pharisees brought in a woman caught in adultery. They made her stand before the group and said to Jesus, “Teacher, this woman was caught in the act of adultery. In the Law Moses commanded us to stone such women. Now what do you say?” They were using this question as a trap, in order to have a basis for accusing him. But Jesus bent down and started to write on the ground with his finger. When they kept on questioning him, he straightened up and said to them, “Let any one of you who is without sin be the first to throw a stone at her.” Again he stooped down and wrote on the ground. At this, those who heard began to go away one at a time, the older ones first, until only Jesus was left, with the woman still standing there. Jesus straightened up and asked her, “Woman, where are they? Has no one condemned you?” “No one, sir,” she said. “Then neither do I condemn you,” Jesus declared. “Go now and leave your life of sin.” John 8:3-11
すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
ヨハネによる福音書8:3-11
We typically think of this as showcasing the grace of God.
わたしたちは、このように、これが神の恵だと思ってしまいがちです。
This is because in a modern context we would expect Jesus to say ‘Don’t worry about it, it happens all the time. It’s quite natural and it’s nobody else’s business anyway. Continue as you were.’
この例が、まさに現代の状況にあてはまり、イエス様が、「心配するな。このようなことはよくおこる。自然なことである。そして、他の人々には関係ない。自分の思うようにするがよい。」と言ってくれるだろうと思っています。
But he doesn’t say this, does he?
でも、もちろんイエス様はそうは言いませんよね。
He says ‘neither do I condemn you. Go now and leave your life of sin.”
彼はこういいます。「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」

This account showcases the mercy of God.
この出来事は神の憐れみを示しています。

This woman (and the man) were deserving of punishment.
この女性と男性は処罰に値します。
They had done wrong. They had sinned. They had violated God’s laws and had no doubt hurt their spouses, their children and others in the family and community.
彼らは、もちろん間違ったことをしました。罪をおかしてしまいました。彼らは間違いなく神の掟を犯しましたし、彼らの子どもや家族を傷つけ、地域の人々をも騒がせてしまったことは間違いありません。
They were deserving of judgement and punishment.
彼らは裁きと処罰に値します。
Jesus doesn’t declare their sin to be no sin, call that grace and then move them on without change. He calls them to repentance.
イエス様は罪を罪ではないとは言っていません。恵みをもって、大きな変化を与えることなく、彼らを悔い改めさせようとします。

The word ‘mercy’ comes mainly from the Hebrew word hessed which at it’s core means ‘devotion’ and is usually translated as mercy. Yet it can also be translated as kindness, lovingkindness or goodness.
憐れみという言葉はへセッドというヘブライ語が起源で、その意味は「信仰」という意味です。そしてそれは、「憐れみ」と訳されます。
As we sing, it’s the kindness of God that leads us to repentance. It’s the mercy of God that sees our sins forgiven.
神の親切が私たちを悔い改めに導くのです。神の憐れみが私たちの罪が赦されたと見るのです。

So, we can say that the cost of mercy is repentance.
ですから、悔い改めは憐れみの代償であるといえます。
When we ignore mercy and repentance for short term comfort, we miss out on the kindness of God and the long term blessings that brings.
もしわたしたちが憐れみと悔い改めのことを、自分たちへの短絡的な慰めの為に無視をしていたなら、神様のいたわりと、のちに長期的にもたらされるようになる祝福を見逃してしまうことになります。
Both perfect mercy and perfect grace are found in Jesus Christ.
完全な憐れみと完全な恵みはともにイエス・キリストのうちに見られます。

I don’t want to be too simplistic about isolating these but we see this perfect mercy on Good Friday when our sins are atoned for, and we see this perfect grace on Easter Sunday when the risen Jesus brings us new life.
これらの恵みと憐れみを単純に独立させて話したくはないのですが、わたしたちが聖金曜日にみたように、神の完全な憐れみと私たちの罪が償われたこと、そして神が再び降臨された復活祭に神様の私たちへの新しい命と恵みをみることができました。
Through His sacrifice on the cross, He has provided a way of escape or mercy from the consequences of sin (John 3:16; Romans 5:8).
イエスが十字架ではらった犠牲と、彼が私たちの為に罪の結果からの逃げ道または憐れみを備えてくださったこと。
God has extended grace by providing salvation to us through His Son, through Scripture, and through the Spirit of God at work among us.
神は神の一人子を通して、聖書を通して、そして私たちのうちの神の精霊のはたらきを通して、私たちに寛大な恵みによる救済を備えてくださいました。
Hebrews 4:16 blends these two ideas in one powerful statement, teaching,
ヘブライ人への手紙4章16節ではこの憐れみと恵みの二つの考えを融合させこのように書かれています。”Let us then with confidence draw near to the throne of grace, that we may receive mercy and find grace to help in time of need.”
だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
ヘブライ人への手紙4:16

Our only rightful response is to accept both God’s mercy and His grace which lead to eternal life in Jesus Christ.
わたしたちの正しい答えは、神のこの二つの考え、憐れみと神への永々の命へと導いてくれる恵みとを受け入れることです。

We can do this by receiving the elements of communion – the bread and the wine – which mark our participation in the body of Christ and in His divine nature.
聖餐式のパンとワインは神の体と神の性質を受け入れるということです。このように聖餐式によって神の憐れみと恵みを受け入れることができます。
Jesus said He came to give us life, and life abundantly (John 10:10).
イエスは言われました。「イエスが来たのは、私たちがいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」
Let us receive that full life with a repentant heart and a gracious spirit.
私たちに穏やかな、悔い改めに満ちた豊かな命を受け止めさせてください。

Pray

“The Lord, the Lord, the compassionate and gracious God, slow to anger, abounding in love and faithfulness,7 maintaining love to thousands, and forgiving wickedness, rebellion and sin. Yet he does not leave the guilty unpunished; he punishes the children and their children for the sin of the parents to the third and fourth generation.” Exodus 34:6

主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、 34:7いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。